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ボヘミアン・シンフォニー

2008年05月14日 12:45:05
 一瞬にして跳ね上がるレブカウンター、まるであれとは違うスムーズなクリックのシフトタッチ、全てが軽くまるでダンスを踊るようにリズミカルなポルシェ911カレラ。博は手元に来たばかりの3.6カレラ6速マニュアル仕様で用賀のマンションから広尾に向けて246を登っていた。カラヤン指揮のウイーン・フィルハーモニーが流れている。心の中にやっとあの時代に戻った安堵感があった。それと裏腹に3件目のカフェのオープンが予定通り進んでいる事にどこか不安があった。設計事務所、デザイナー、施工会社・・。何も問題は無いはずなのにだ。何かが足りない・・。

「あのじいさんも356はもう生きてはいないだろう・・」 

 なぜかふとじいさんのことが蘇りそんな思いに駆られた。

 帰国して5年、オーストリアはウイーンのカフェで長年下働きをして身に付けた空間の演出には自信がある。若いクリエーター達がまるで自分の部屋のように使う自由空間として開いた、恵比寿のカフェは予想以上の成功を収めた。青山に2件目、そして広尾に出す3件目も何の心配も無いはずだった。

 3件目を開ける事でまるで封印を解くように手に入れたのがタイプ997ポルシェだった。20年前やっとの思いで蓄えたお金で手にした忘れもしない2.7L911Sはもう手元にはない。

 高校卒のトラックドライバーから今の成功のきっかけはあのポルシェ911Sとの28歳の時の出会いだった。ポルシェパラノイアである事だけが自分の自信のすべてであった時代。

 だがポルシェを「乗りこなす」事がドライビングの腕を上げるだけではないという思いが湧いてきた。フェルディナンド・ポルシェを生んだかの地への興味と憧憬。一度しかない人生、トラックドライバーで終わりたくない思いと、世界を知りたい衝動が博をシュッットガルトやウイーンやフェルディナンドの故郷チェコのボヘミアへの旅に駆りたてたのだ。一年間ドイツ語を学びわずかな理解力のまま、それこそボヘミアンのように旅立った。

 ポルシェ911Sは人生の転機になる旅の資金となった。放浪の果てにいつしか始めたカフェでの下働きは博に新たな世界を見せてくれた。「ポルシェ乗りになる事」の意味を教えてくれた356のじいさんの思い出とポルシェへの関心は、その地に花開くあでやかなヨーロッパの香りに浸る事の中に封印されていった。ハプスブルグ家の遺産が色濃く残るウイーンの街の刺激はハイドン、ベートーベン、モーツアルトを引き付けた様に博の心の全てを虜にしたのだ。そして12年の歳月が経っていた。

 ウイーンのカフェ文化を身に付けて帰った博は、運良く東京のオープンカフェブームのタイミングと合致して銀行の融資もスムーズに行ったのだ。「カフェ・モーツアルト」「カフェ・ムゼウム」「カフェ・シュぺルル」「カフェ・ツェントラル」といった伝統的なカフェで修行を積んだことが多くの協力者達を生む事にも繋がっていた。

 新聞は3紙以上置いてある事、曲げられた木のイスと大理石の丸テーブルがペアで揃えてある事、壁には鏡が取り付けてある事、300年の伝統がこれらの条件をウイーンのカフェに与えていた。画家や文人、学者や哲学者、音楽家やアーチスト、カフェは文化創造の場であり情報の発進基地でもあった。形は変わらずとも中身はいつも最先端の文化を生み出す、どこかポルシェのそれも911のRRに拘る伝統とも一脈通じるものがあった。

 広尾のカフェは2週間後に無事にオープンした。高い天井と大理石のテーブルがもたらす落ち着いた雰囲気が自由な時間の流れを造りだし広尾の名所になり始めていた。オープンテーブルの壁際の一角に額に入れたフェルディナンド・ポルシェのモノクロ写真を飾った。その前のテーブルはオーナーの博の専用の席のようになっていた。

 そんなある日青山1丁目の交差点で見覚えのある356を見かけたのだ。

「まさか・・」

数台前を行く後姿、白いこんもりしたリアビュー。356のコンバーチブルはスムーズにクルマの間を抜け墓地下方向へ右折していく。一瞬サイドフォルムが見える。博は911をその356に近づけようと乱暴にタクシーの間に割って入った。驚いたタクシーがけたたましくクラクションを鳴らした。周囲のクルマたちがそれに驚いて一斉にブレーキを踏んだ。博は一気に3台を抜き去り強引に右折した。すでに356は2つ先の信号を交わしている。だがその姿も赤信号で止まるうちに見えなくなっていた。諦められない気持ちのまま数日がたった

 「まさか・・」

広尾のカフェのカウンターにいた博の目に見覚えのあるあの356AコンバーチブルDが店の前に止まるのが見えた。見覚えのある姿。柔らかいベージュの塗装。20年前の蓼科。「ポルシェは人の心がわかるんじゃ」と言ったじいさんの356。塗装のやれ、地肌の出たメッキ、まるであの時のままだ。

「じいさん・・」

 目にはっきりと焼きついているじいさん。蓼科を走り2日間を過ごしたじいさん。西に旅に行き音信が途絶えたじいさん。夏になって尋ねた別荘はもう取り壊されていた。

 356からすっと降り立ったのは若い女性だ。ジーンズに白いブラウス、サングラスにショーヘア。凛とした立ち振る舞いが見て取れる。慣れた風情で店に入りサングラスを取ると当り前のようにフェルディナンド・ポルシェの席に着く。キュートで美しい女性だ。おもむろに大判のノートを黒い革かばんから取り出しテーブルに広げる。

 すべての動作がごく自然にまるで自分の部屋にいるかのようだ。彼女はメランジェとザッハトルテをオーダーした。

 一時間ほど待って博は声をかけた。彼女は五線譜を広げている。博はこの年にして胸がときめいている。彼女が美しいからだけではない、あの356とじいさんのことが知りたかったのだ。

「失礼ですがあの356は・・」

「ハイ私のです。お売りするわけには行きません事よ」

彼女は博の意図を取り違えて答えた。博は流行る胸を押さえるように言葉を繋いだ。

「私がずっと若い頃にお世話になった方のクルマだと思ったものですから・・・」

 博は20年前のじいさんとの出会いを話した。彼女は静かに聞いている。そしてゆっくりと答え始めた。彼女自身はデビューしたばかりのピアニストであると。祖父母共に音楽家で祖父はピアニスト祖母はバイオリンを弾いていたこと。共に留学中のウイーンの街のカフェで祖父母は出会ったこと。祖父は結婚をしていたが熱烈な恋愛の末先妻と別れ、ウイーンで出会った祖母と一緒になったこと。あの356は留学中の祖父が向こうで手にいれ帰国時に持ち帰ったこと。新婚時代から祖母が亡くなるまで356は祖父母といたこと。自分の母からこの356を引き継いだこと。それは彼女自身もウイーンに留学をしていたからだと。

「このカフェはいつも私が通っていたお店に雰囲気が良く似ているの、とても落ち着くの。もちろん祖父母たちも通っていたのよ。こんな風にカフェの前にポルシェを置いてね。何も変わらないわ・・・」

 博は偶然の引き合わせに胸を熱くした。あのじいさんが自分をもウイーンへ導きこのカフェを作らせたと思った。不思議な運命に驚きながら感謝をしていた。「祖父は祖母が亡くなってから一度だけ長距離のドライブをしてこのポルシェには乗らなくなったそうで、その後祖母の後を追うように亡くなったわ」

彼女はエリカと名乗った。そして博にこう告げた。

「お乗りになりますか、いい思い出になるかと思います・・」

 博は彼女と356に恋をしたかのようなときめきを感じた。助手席にエリカが座り博は356AコンバーチブルDの細く華奢なステアリングを握った。走り始めると全てが軽くあらゆるものが博のイメージ通りの動きをし、全てが意の中にあるようだった。今の997に比べてもその動きの根幹は何も変わらないリズムがあることを感じていた。

「ポルシェを運転する時にはピアノを弾くときと同じメロディを感じるの・・・」

とエリカは言った。そしてその言葉は生前に母に356を託した時の祖父の言葉だと。

「ポルシェを走らせるためのメロディ」博はじいさんの「ポルシェ乗り」の意味が解った気がしていた。滑らかなメロディと呼吸のリズム、まるでシンフォニーを奏でるようにポルシェを操る。ウイーンの「黄金のホール」で奏でられるシンフォニーのように。

「貴女はこの356をポルシェとだけ言う、私の911もポルシェ、ポルシェはいつの時代もポルシェ、芸術家達の愛するポルシェは永遠の命をもっているのですね」

博はこの出会いも運命の中にあるかのようで、足らないものを見つけた気がしていた。

「変わらないわ、きっとこのポルシェが見ていてくれる・・」

まるで国立オペラ座の「オーパンバル」のように二人の舞踏会でワルツを踊るのだ。じいさんが見ている。

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I WILL FOLLOW YOU

2008年03月31日 14:22:19
 天井の染みが世界地図のように見えていた。もうその染みを見始めて二ヶ月は経っただろうか。省吾にその時の記憶はない。重く凍えるように冷たく深い闇の中にいた様だった。意識を自覚した時に自分が感知できない体があることに怯えていた。
 父がいた、弟がいた、会社の仲間がいた、明と萌がいた。母の姿は無い。ただ夢の中でずっと昔に無くなった母と会話をしていたような気がする。自分がベッドの上にいることに気付き、何故いるのかは理解できなかった。見知った人間達が覗き込んでいることの意味は・・・。

 「俺は死ぬのかもしれない・・・」

 意識の回復と喪失が一定のリズムがあるかのように順序だてて襲ってきた。回復する時のめくるめくような快感と苦痛が導く深く静かな恐怖に打ち勝つすべが無い。
「最悪・・・」

 二十日が過ぎて何かが安定してきた。意識の乱れもなく記憶の途切れ、ただあの時の事を除けばだが、も少なくなってきていた。医師が言った。
「命は助けた。君は死ぬ事はない。君はもう30歳だ、最悪のことを伝えておこう。首から下がだめになるかも知れない。君は事故で首の骨を痛めた、頚椎骨折だ、4番5番ね。それと頭の骨も痛めた。頭蓋骨骨折だな。まあ直るよ、最悪のことを言ってるだけだからね」
「最悪か・・。でもそうじゃない。絶対・・・」

 いつも見舞いにきてくれる萌と明に今すぐに会いたくなった。クルマ仲間のCMプランナーの明とは小学校からの幼馴染だ、商社勤めの萌は大学から付き合っているし、広告代理店勤めの省吾も流石に結婚しようと考えている彼女だ。

 何が起きたのか知りたかった。

 「走行会で筑波サーキットを走った帰り、萌を送ってからお前一人になって、事故にあった。深夜1時過ぎ、雨が降り出して、神宮前の交差点。お前はいつものように直進した。青から黄色に変わるギリギリだろうな、そこにタクシーが突っ込んだ。Tボーンで、お前は避けようとした。右ドアの後ろを当てられて独楽みたいに回ったお前とミニは街路灯2本倒して止まった。クルマは全く前がない状態だ。よく生きていたよ」
萌は涙ぐみながらじっと明の言葉を聴いている。

 省吾の記憶の果てに何かがあった。萌の部屋に寄った。青、いきなり何かが右から飛んできた。ステアリングで逃げる、軽い衝撃、後はホワイトアウトして記憶がない・・。でも、萌が乗っていなくて良かった・・、と思う気持ちが省吾にはあった。

 2か月後には萌と明の手を借りて歩き始めることが出来た、両手の痺れも軽くなり握力も回復してきている。
入院生活はリハビリが中心のメニューになっていた。ただ時折襲われる頭痛と吐き気が省吾から生気と自信を奪っていき、いつもイライラとした自分と向き合っていた。

「もうクルマは無理だ乗れない・・。仕事もダメだ」
その頃から萌の見舞いにくる回数が減ってきた。

 この10年いつも萌と明とミニがいつも一緒だった。1990年型のメイフェアをあれこれいじってはショップの走行会や、ネコパブのヒストリックイベントでモテギを走ったりしていた。普段は首都高速や芦ノ湖スカイラインで走りの腕を磨いていた。

 いつの間にか奥沢の省吾の家の小さな庭はミニとそのパーツやら工具やら枕木やらでちょっとしたショップ状態になっていた。もっぱらいじるのは明で省吾はイメージを、運転どころか免許すら持たない萌は体育系クラブのマネージャーのように二人の面倒を見ていた。明のミニは1.3のクーパーSをほとんどオリジナルで乗っていた。
省吾のミニがチューニングの対象だった。省吾がそれを望んだのだ。センターメーター、レスレストンのステアリング、インジェクションからキャブに、それもとりあえずはSU1/4ツィンだがウエーバーに変える予定もしていた。ジャンスピードのマフラーを組み・・・。でもこの5年はもう昔あったクーパー仕様やジャンスピードのヘッドのパワーアップキットも手に入らなくなって、ミニブームも終わるかの空気があった。
「BMWのミニなかなか良いよね、省吾乗ったか・・・」
「乗る気ないよ、ミニはこれでないと・・・」
「ジョンクーパーの凄いのが出るらしいよ。俺は興味あるな・・」
明のつぶやきに省吾は答えなかった。

 オーバーホールしたてのキャブ調整に手間取ってあまり周回を重ねられなかった筑波の走行会の帰り、いつもの谷和原インター近くのデニーズでの反省会はなんだか盛り上がらなかった。

 もう声に出しては言わないけれど、何かの季節の終りのようなものを皆感じていたのだ。そんなときの省吾の事故だった。

 世間に戻れない、戻ってもやっていける自信の持てない自分と向き合うしかない省吾がいた。天井の世界地図を見ながら省吾は今までミニの世界だけで生きてきた自分が情けなくなっていた。

 「グッドウッドに行きたい、プレスコットヒルにも行ってみたい・・・」
でもそんなことが出来るとは思えなかった。一日に二度三度と嘔吐する自分がすべてだった。嘔吐した後にも萌は小さな胸に省吾の頭を抱きしめてくれた。その萌が見舞いにも来なくなった。明だって頻度は減っている。
外の空気を吸える二人が疎ましい。

「なんで俺だけが・・」
苛立ちながらも、静かに時が流れていった。

 二人に対する嫉妬があった。もうたまにしか見舞いに来なくなった二人に嫌悪感すら覚えるようになっていた。

 もどかしいまま入院から半年が経っていた。退院の予定日が近付いて来るに従い、省吾は一人孤独と向き合いながら生きることを覚悟した。「クルマには乗れない、事故のトラウマからは逃げ出せない自分がいる・・今生き残った命をまたクルマに預けるなんてできっこない。何もいらない普通に暮らしたい、それだけだ・・・」
退院予定日が決まった日、久ぶりに見舞いにきてくれた明に愚痴が出ていた。

 退院の朝が来た。父と兄弟、明がいる。目で萌の姿を追った。萌が来ていない。誰も萌のことを口に出さなかった。喪失感が省吾を襲った。

 「退院おめでとう。俺が送るよ・・」明が自分のミニクーパーに省吾を呼び寄せた。
 「クルマに酔うかも知れない・・」省吾の言葉を明は無視をした。

 半年振りの外界に省吾は興奮と喜びを感じていた。ミニのエンジンの音、排気やオイルの匂い、細かなピッチング。全てが新鮮でどこか懐かしい感覚だった。

 「運転できるか?やれるか・・」明が3速から4速へギアを上げながら尋ねた。
 「無理だよ」退院したばかりの今そんな自信はないと省吾は思った。

 ミニは家への道とは違う方向に向かっている。
「ちょっと寄りたい、いいよね」明の言葉に省吾は黙っている。ミニは目黒通りを下っていく。

 よく三人で食事をした「自由が丘グリル」の前にリアウイングのある渋い青のBMWミニがいる。その前には青いBMWミニクーパーSがいる。省吾は目を奪われた。その2台の後ろに明は自分のミニを止めた。「降りよう・・」怪訝そうに省吾は明をみた。何故降りるのか解らないまま外に出ると、店のエントランスに萌が立っていた。微笑みがある。

 「おめでとう、退院・・・」
省吾は面食らっていた。青いブラウスに白いパンツの萌は髪の毛を短くしてキュートな感じが増している。省吾は眩しささえ感じていた。「さあ・・」せかすように明が萌を見る。「付いてきて。私はこれ、アナタはその元気のいいほうね」萌は青いミニクーパーSの運転席に乗り込んだ。あっ気にとられる省吾の背中を明が押した。

 「ジョンクーパーワークスGPキットだ。以前のモデルが170ps、これはワンメーク用のロードバージョンで218ps、スーパーチャージャー付きだよ。リアシートはない、リアのストラットバーが効いてるぞ。お前は乗れる、萌についていけよ」
「アイツ、どうして・・・」
「お前のために免許取ったんだ、俺がミニを教えた、但しBMWミニクーパーSの運転をな」

 萌の青いミニクーパーSが発進した。省吾は深呼吸をしてエンジンをかけるとゆっくりとクラッチを踏み、ギアを1速に入れた。クラッチは思ったほど重くはない。一瞬繋ぎが荒くなり勢いよく発進した。頭がくらりとする。2速に入れる、2500rpmを超えるとスーパーチャージャーの鋭い加速が襲う、ミャーと過給器の音がする。あっという間に萌に追いついた。萌の青いミニには若葉マークが張ってある。省吾は徐所に自分の中に動く感覚が蘇ってくるのを感じていた。

 自由が丘から東玉川を通り中原街道を萌は登っていく。荏原から首都高速だ。いつも省吾が萌を乗せ、ジェットコースターといってサーキットに見立てた走りをしてきたシェイクダウンコース。

 萌は勢いよく合流し最初の右コーナーを120km/hで抜けていく、彼女は必死で走っているに違いない。昔の感覚が戻ってくる。料金所を過ぎ加速をする。天現寺の合流の先にはS時から左のタイトコーナーが待ち受けている。その先はブラインドだ。

 萌は遅いクルマたちをひらりひらりと交わしながらかなりのペースで走っている。丁寧な減速、切れのいい加速。よほど走り込んだのか、無駄のない走りだ。今まではいつも省吾の助手席には萌がいた。「ちょっと怖いよ」と言う萌が。その萌が前を行く。この2台のミニのコンボイ・・。ブラインドコーナーを抜けると前を行く萌のミニの上にオレンジ色の東京タワーが浮かび上がっていた。省吾は涙が止まらなかった。

 「お前についていくよ、もう大丈夫だよ・・・」

 萌は自分のお金のすべてを使って二人乗りのジョンクーパーワークスGPキットを省吾のために買った。もう一度、今度は二人で輝くために。あの青いクーパーSは明のもの。
「もうメカニックはやらないよ・・省吾、ジョンクーパーワークスGPの運転は、今度はお前が萌に教えるんだぞ」それぞれに新しい季節が始まろうとしていた。

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アルフィスタ・スタイル

2008年01月24日 17:15:14

「かっこいいな、やっぱジゥジアーロのデザインだよな、ベルトーネ時代のジゥジアーロがデザインしたカングロの面影あるよな」
 
蒲田君は痛くアルファロメオのブレラがフェ バリットになったようだ。
 「アルファはやっぱカタチだねこれ絶対だよ」

彼の絶対論理が続く。高田くんはアルファなら何でも許してしまう最近の蒲田君のそこがちよっと許せない。

「どこがカングーロなんだよ・・」
口には出さないが思ってしまう。

「アルファロメオがGMと資本提携が起きて、今はまた元に戻ったけどさ、新世代アルファの159やアルファGTとこのブレラはプラットホームやエンジンコンポーネントをオペルべクトラと共用してる部分がある。それはどうなのよ」
と高田君。
「あれはさ仕方ないんじゃない、生き残るためさ。俺は許すね」
 
高田君は1996年のアルファ155 2.0TSスポルティーバ、モモのステアリングにユニコルセのタワーバーや車高調サスが入っている。

蒲田君は1968年の1300GTjnが愛車、ガレージGOTOのメンテもの。昔ティーポにいたマタンキのベースと同じなのが蒲田君の自慢だ。
 
二人は今、環8瀬田のデニーズにいる。
以前なら尾山台のイタリアンで溜まったものだが、駐車場がないから前のようにファミレスに行くようになった。民間委託になってから駐禁がうるさくて、これではクルママニアの集まるところが限られてしまうヨな、と話してるうちに、またアルファ話で盛り上がったのだ。

もちろんTipoとROSSOとNAVIを二人で見ながらだ。

「お前のさ、155のツインスパークはいいエンジンだと思うよ、でもさ皆書いてんじゃん、159の新しいJTS2.2は良いってサ。3.2のQ4だって悪くないらしいよ。159もブレラも今はマニュアルしかないんだから潔いね。でもちょっとギヤ比がハイギヤド過ぎるよな絶対。燃費稼ぎだろうよ。2-3-4はもっとクロスレシオしてほしいな」
 
以前の蒲田君は自分のアルファが旧車のマニアックなクルマであることからか、70年代以降のアルファをことごとく批判の対象にしていたのだ。

軽々しいアルファブームが許せなかったはずなのに。
それがこの一年ぐらいから変わり始めていた。

「最近さアルファのブログまともなの減ったと思わない、俺の「チャオアルファ」はかなり来てくれてるけどさ。人のさ、ちまちま日記見ててもしょうがないじゃん、俺みたいに歴史知識と情報が入ってないとさ」
 
蒲田君のブログは専門誌のネタからが多いよ、と高田君は思ったがやはり口には出さなかった。

「こないださTZ- 見たぜ、東名でさ。ミッレミリアじゃないしネコの横浜イベント
でもないし、走ってたんだ。ティ ポ33ストラダーレもかっこいいと思ったけど
TZ- は別モンだな。アルファはやっぱりあの時代だな」
 
高田君が珍しくヒストリックの話しをした。
 
「最近仙石原に行ってないな。また夏前に行きたいな」
 
蒲田君がふと遠くを見るような目で言った。

箱根の仙石原にアルファ好きを中心に旧車好きの集まるカフェがある。
芦ノ湖スカイラインやターンパイクを攻めたり、流したりした後ちょっと立ち寄る場所。

気楽なイタリアンがいい「カフェ・ジュリア」。

「あの時の名古屋のさオヤジ、やまさん,147GTA乗ってるかな・・・。いきなりGTAだモンな。55歳すぎてんだぜ。自分でゴーゴーボーイってさ頑張るよな。ルノー21ターボ、シトロエンCX、プジョー205GTi、サーブ900、トラ4、メルセデス280SE、ポルシェ914、色々乗って始めてのアルファだって言ってたよな」
 
五月の連休を避けて、明けた週末の午後に「カフェ・ジュリア」詣でをした時、芦ノ湖スカイラインをかなりいい調子で走る青い147GTAがいた。三河ナンバーで、かなり走り込んだライン取りが印象的だった。地方から走りに来るマニアックな人たちは多いが、やぎさんで休みがてらミーティングならぬ半ば冷やかしの見物をしていた時、おなじアルファ乗りと思ったのか、その青い147GTSの人が声をかけてきたのだ。

「えっ・・・」と思ったのはその人がおじさんだったからだ。自分達と同じく30代前半ぐらいだろうと勝手に想像していたのだが。

「「カフェ・ジュリア」に行ってみたいんだけど教えてくれませんか。うわさで聞い
てね、寄ってみたくなったので。なんせナビもつけてないんでね」

蒲田君の1300GTjnと1552.0TSと青い147GTSは連なって芦ノ湖スカイラインを下り始めた。二人にとっては走り慣れたワインディング。それもいつも専門誌が撮影をやっている、いわば自動車おたくの聖地を我が物とする誇りが、蒲田君にガレージGOTOチューニングの走りをGTAさんに見せたくなっていた。左に富士山の絶景を見る展望スペースの右ブラインドコーナーから始まった。急に蒲田君は加速したのだ。高田君は「またか・・」という思いだった。あおらないように少し車間をとる。まあ、へまを避けるためにもね。
 
蒲田君は一瞬イメトレをする。各ギア頭5500回転までで決める、いいエンジン音とエキゾーストが山間に響き渡るんだ。1300は非力だけれど下りは腕勝負の見せ所だし。
 
馬の背に向かってS字を左足ちょんブレを生かして3速で駆け下り、左コーナー手前でしっかりブレ-キング、はみ出すとヤバイ! リアがグリップ限界でズリッと来た。
汗が出る。2速で立ち上げ振りきりで3速、馬の背手前でブレーキ、飛び越えてちょんブレで右、中速左コーナー、踏ん張って右ヘヤピン。ここまでどのコーナーも連続しているリズムが崩れると即スピン、コースアウトだ。ブレーキがもう焼けてくる。
フェード気味だ、アンデーが出た。リズムが崩れてきた、センターラインを割り始めた。ちょっと離れて走る高田君が2度パッシングを送ってきた。蒲田君は我に帰った
ように速度を落とし始めた。

「なんだか今日はリズム取れないな・・・ハンドリングに問題あるな、錆びてるボールジョイント替えないと、やっぱノンスリ入れないとダメだな絶対・・」

蒲田君はジュニアを流しながら一人で乗り切れない原因を追求していた。
こうしてまた「カフェ・ジュリア」に戻ったのだ。新しいお客、それもオヤジのアルファ乗りをつれて。ちょつと得意げに。こうして名古屋のやまさんと知り合ったのだ。


「子供もいないし、サラリーマン最後のクルマとしてGTAにしたんだ。年をとるとフツーは落ち着きたくなるものだけど、僕は逆に頑張ろうと思ったんだ。前からアルファって気にはなっていてね、ルノーのメガ-ヌスポーツかコレか迷ってね、今回は東京出張でね、本来は新幹線を使わないといけないけどさ。今このクルマに乗ること
が一番楽しくてね」
 
やまさんの話しは面白かった。もう旧知の間と言う感じだった。
 「GTAのAはアッレェジェリータ、軽量化を意味するんですよね、1963年のジュリア・スプリントGTの八イパフォーマンス版でデビューしたんですよ。外装をアルミで軽量化したモデルです。アウトデルタの欧州ツーリングカー選手権時代が華だよね」と蒲田君。

「最近のAは155GTAからでしょう。4WDの2リッターターボでニコラ・ラリーニが乗ったやつ、もう軽量ではなくて、コンペティションのイメージに使ってるよね。156からは実際重くなってるしね。でもやまさんのは最後のピュアアルファV6ですから」

「私は今とても満足していますよ。やはりアルファはマュアルだと思ったんですが、体力的にもセレスピ-ドが楽でね、まあそこはオヤジと言う事で許してくださいね。
やはりお話し伺ってるとアルファは奥が深いですね、勉強しますよ」
「ちょいワルオヤジってことで許します」

高田君も積極的に話しに加わって来る。なんだか久し振りに盛り上がっていた。

名古屋まで帰るというやまさんを御殿場まで送りがてら走ることにした。

「これからもアルファの先輩としてよろしくね。今度は家内と箱根に来ようと思って。その時は連絡しますからね、お二人もそれぞれカップルで温泉でも行きましょうよ、泊りがけで今度は飲んで騒ぎましょうね、是非、アルファはエモ-ションですか
らね、人生の、愛です愛」

先輩と言われたことがジーンと二人の胸に来た、が、二人とも今のところ彼女がいない。フツーなら、アルファ乗りなら彼女の一人や二人いても不思議じゃない。出会いが無いだけだ。電車男だけじゃなくアルファ男にもエルメスあれ!だ。
 
二人ともこのところイベントに参加する事もなんとなく減ってきていた。
知り合う人も少なくなっていた。やまさんともあれ以来時々メールでやり取りはするだけだ。

「結局アルファロメオ・ディも行かなかったよね・・・I&Fどうする?」
「いいんじゃないか・・・」
「彼女できたら二人で参加するよ・・・」
「俺も絶対」
 
二人とも、蒲田君はNAVI、高田君はENZINEのそのページで目が止まり寡黙になった。
そのページとはイタリアのシシリー島で行われたアルファ・スパイダーの試乗記だ。
ジゥジアーロデザインのブレラをベースにピニンファリーナがスパイダーモデルに仕立てたものだ。

「ピニンファリーナのエンブレム入ってるね。かっこいい・・」
「ホント、スパイダー”デュエット”だ。アモ-レミーヨだ、ううんー」
それぞれがそれぞれの思いで助手席に乗せる美形を勝手にイメージしていた。

高田君は山田優を思っていた。
「背高いけど、似合うよな。やっぱ赤のスパイダーだな。どこに行くかな、[卒業]だな。ダスティホフマンにならないと。山田優をさらって二人で逃避行するんだ・・・いやあ、蝦ちゃんかなおれの場合・・・」

勝手な妄想の中にいる。蒲田君はもっぱらMEGUMIだった。
「結構あの子って、優しいんだよな。MEGUMI乗せて海に行きたいな。色は彼女に決めさせるんだ。3.2のQ4だよねって話しながら、チュするんだな・・」
 
ふっと我に帰った二人は目を合わせた。お互いに自分の世界にいたことを悟られないように苦笑いをし合っていた。
「いいねコレ。もう一台買うならコレだな絶対・・」
「そうねスパイーダーあってもいいね。気楽にね、アルファはエモーションだからさ」
二人とも少しだけ気楽なアルフィスタに成ってもいいと思い始めていた。そのときはオートマでいいとすら。
 
「スパイダーのアイシンQトロニックATが入って来るのは来年春として、こなれた値段で中古が出回るのは2年後からだよな・・」
 おなじことを考えている二人。

「やまさんに連絡しょうか、またさ人生論交わそうよ。夏休みをあわせてグランドツーリングしようよ。絶対エモ-ショナルに生きてるからさ俺達は」
「アルファはカッコいいんだから。ピュアかっこいいんだよな、俺らって」

梅雨明け宣言があった。連絡があったやまさんと夏休み前だけど、またあそこで会うことになった。エアコンの調子のおかしい高田君も、もともとクーラーの無い鎌田君も、窓全開で東名を御殿場に向かってアルファサウンドを奏でながら流していた。

サイモン&ガーファンクルのスカボロフェアを聞きながら、ふたりとも近いうちのいつか手に入れるニューアルファスパイダーに、意中の彼女を乗せる夢を見て・・・。


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Zコラム

2007年12月14日 11:28:56
団塊のぼくらにとってZは特別な存在だった。ダッツンSP,SRの豪快なオープンスポーツはブリティシュオープンスポーツに数値の中で負けることのない誇りがあった。100マイルクラブのメンバーに入ったのもSRだった。それがあのカルフォルニアのセイフティ・クライシスで屋根を付けなければいけなくなった。こうして1969年に登場したのがZだ。シュープリーム、アルファベッド最後の記号、究極のの意味をもつZ。スポーツカーが生き残れないはずの時代に、期待以上の躍動感と美学をもって登場したZ。誰もがそのフォルムの流麗さに感動したものだ。
 S20エンジンのZ432。届くことのない憧れ。それは時を同じくして憧れた海外の女優たちに似て悩ましい憧憬となる。
 曰くナタリー・ウッド、パメラ・ティファン、エルケ・ソマー、キャンディス・バーゲン、キム・ノバク、アニタ・エバーク、カトリーヌ・ドヌーブ・・・・。サーキットのZ,ラリーのZ、モンテカルロとサファリのZ。銀幕というステージの上で乱舞する彼女達のように闘い舞うものの美しさが青春のナイーブな心を魅了した。
 アメリカでポルシェとマーケット争いをしたZ。ブリティシュ・ライトウエイトスポーツのすべてを駆逐したZ。あのオースティンヒーレーをしてアメリカマーケットを撤収する時、「我々のスピリットはDATSAN240Zが継いだ」と言わしめたのだ。いつも伝説を作り伝説とともに生きてきたZが今は身近にいる。
 私的なことだが、1972年夏東アフリカのケニア、首都ナイロビ、リゾート・モンバサ。サファリラリーの後の東アフリカ選手権ペプシコーラ・ラリーにエントリーした260Z。その追浜チューニングのワークスラリーZを2日間預かりナイロビ~モンバサをカッとんだ記憶が蘇る。サイド出しマフラーのエキゾーストノートはまるでプロップ戦闘機のそれだった。ローギヤードのクロスレシオなミッションとの組み合わせでMAX210km/h。荒れたモンバサ街道では直進を保持するの神経を使ったのを思い出す。ところがサバンナ地帯が作り出す乾燥した赤土の中ではまさにコントローラブル。重戦車といわれたZだがライトウェイトなマニュバビリティが印象的で、グラベルでのスタビリティの高さは感動ものだった。われわれの世代の憧れた荒武者のもつ美学があった。その血流は脈々と今に受け継がれエレガントなZに成熟したのだ。
 今僕らの手の届くところにあるZは闘いの姿勢を内に秘め、おだやかに年を重ねた緩やかさの中にある。息せき切って生きてきた。そして今歩幅を緩めて歩く時、振り返ればそこに同じように生きてきたZがいる。Zは自分の道を自分で切り開いてきた孤高のプライドがある。僕らの世代はそれが痛いようにわかる。われわれもそうだからだ。目隠しをして運転席に座ってもZは解る。初代から5代目まで、そのドライブポジションが変わらないからだ。そこに通底する頑固な意思に僕らは共感するのだ。コレはひとつの文化だ。
 旅立ちの朝、高ぶる気持ちをゆっくりとクルマの周りを一回りすることで落ち着かせ会話を始めるのだ。もちろん選ぶのはZロードスター・バージョンSTがよい。あの頃はサファリブラウンが流行ったものだ。あの頃の自分を探すためにそんな色を選んでも良いか。良い思い出を持つ、人生には大切なこと。男一人旅も良いが連れ合いも助手席の華に同行願おうか。さほど荷物もいらないニ泊三日の旅に出る。それぐらいが丁度良い。あくせく走らず、いつもマイペース。クルマのポテンシャルの十分の一、それが余裕というものよ。Zは40km/hで走ってもZを感じることが出来るのだから。
 東京から400km,自分の命のDNAに触れたいと言う想いから旅のイメージは広がり白川郷へ。日本は山の国、小京都高山から荘川、白川郷、五箇山あたりはいく年月連綿と山の土と芳しい文化が残っている。1976年9月4日「白川郷・五箇山の合掌造り集落」伝統的建造物群保存地区選定。1995年12月9日世界遺産登録。
 中央高速を西に向かう。旅の始まりは気密性の良いソフトトップの中でお気に入りのCDでも聞きながらマイペース。ビートルズ、サンタナ、ストーズ、イーグルス、もっとジャジィなヤツでも。大体高速道路ではお隣さんはぐっすりとお眠りになるのが世の常。逆らうことなく平穏に過ごすうちに長野自動車道で松本へ。
 ここから158号で安房トンネルを通って高山に向かう。もうかなりの山岳ワインディングが待ち構えている。3.5リッターV6280ps/6200rpm、37.0kom/4800rpm,マニュアルモード付き5速AT。そろそろソフトトップは下ろして走ろう。ワンタッチでロックを解除しオープンスイッチを押し続けるだけで20秒もすれば本来の美しいコンバーチブルの姿が現れる。山間の空気が美味しい。さわやかな香りがする。山の中に入る嗜みのようだ。ネットシートは身体とシートの関係をさわやかにしてくれる。連れ合いの気分に合わせて2-3-4のギアを使ってコーナーをさらりとアタック。清廉な山の風を身にまとうようなドライブが続く。
 安房トンネルの中は時折水滴が落ちてくるが、コレは御愛嬌。高山の街のたたずまいをのんびり堪能して、連れ合いのお気に召すままに昼食など。目的地は白川郷、高山からルート158を西へ。木工の盛んな清見村、「飛騨の匠達」。脱サラをしてコミュニティを作った昔の仲間たち。懐かしいおももちに襲われる。いつか「オークビレッジ」も尋ねてみたい。
 荘川の牧戸からルート156へ、暫く南下すると標高867mの「中央分水嶺公園」がある。森の中から湧き出た水が左右に分かれて流れていく。国道脇にある分水嶺だ。左は長良川となって太平洋へ、右は庄川となって日本海へ。人生の秘めたる感動がある。
 日本海側に庄川に沿って戻る。ルート158を白川方面へ。山々の連なりを淡い緑深い緑のグラデーションの中を走っていく。もう音楽も要らない。鳥のさえずり木々のざわめき、山間の風の音に木漏れ日が心地良いのだ。これこそオープンドライブの醍醐味、それもZである喜び。
 旅の解放感のただなか、里山の風景に見せられているとひょっこりと現れたのが三角形の茅葺き屋根をもった合掌造りの集落だった。山深く冬は雪深く、人々と厳しくも優しくもある自然との長い長い渡りあいが、この日本の原風景のような建物と集落を作り上げたのだ。古くは正倉院の文書に「飛騨白川郷」の名が現れ、1183年(寿永2年)倶利伽羅峠の闘いで木曽義仲の軍勢に敗北した平家の残党が流れ住んだと言う伝説も残る白川郷。元禄時代には幕府の天領となり火薬製造や木材生産、養蚕・生糸生産が盛んになっている。合掌造りは蚕の生産用の建物であった。
 萩町城址から萩町集落を展望すると、ここに生きる人たちの連綿とした生活の確かさと、自然と共生するあり方にまた学ぶものを得た気がするのだ。
 この旅はあの学生時代から一度も尋ねたことのなかった場所に憧れが現実になったZと共にと言う、まるで青春時代の忘れ物を捜す旅でもあった。これからも年は拾い続けるだろうが、Zといる限りはいつだってあの時代に舞い戻れるから不思議だ。

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二人のクーペ (「新・ニッポンの外車生活」より)

2007年12月14日 11:27:50

「綺麗なクーペ・・」

それはつい一週間前にコート・ダジュールの一人旅から帰ったばかりの真美さんに地中海の煌く海を思い起こさせる深いブルーのクーペだった。

玉川田園調布の信号を環8から右折して駅前のレストランに向かう途中の真美さんの目の前を、そのクーペは田園調布から自由が丘に向けて流れるように走り抜けた。
久し振りにこの街に来る。彼女が横浜に嫁いだあと、祖父母が相次いで無くなり、彼女の父は悩んだ挙句相続できなくなった家と土地を手放していたのだ。今帰るベき彼女の実家は湘南の葉山の海を見る高台にある。

横浜で住宅販売と中堅の不動産業を営み、自分はポルシェ・カイエンターボSに乗る夫からあてがわれたのはレンジローバー・スポーツだった。子供の出来ない二人は相互に不可侵の自由が出来ていた。その証がこのクルマだった。ただいたく真美さんはこのクルマが気に入っていることは確かだ。
 

銀杏並木を走ると昔の思い出が蘇ってくる。

若くて奔放だった自分の姿が高い目線のフロントスクリーンの向こうに、映画のように浮かび上がる。朝早くクルマの運転の練習をしたことや、昔の古い駅舎でのほろ苦い思い出。あれから20年、年には見えない若々しいと、人から言われるけれど、おばさんになったと思っている。
 

駅の前は見違えるようになった。それこそ南欧風の建物で明るい。イタリアンカフェやマーケット、書店、パン屋さん、美容院、娘の頃に欲しかったお店がある。今は半地下になった東横線、発着するのが地上で見えたあの頃がふと懐かしい。この街の空気を吸うことで自分があの頃に戻るような胸のときめきがあった。
 

ロータリーに昔のように、メタリックレッドのレンジローバー・スポーツを止めて駅前を散策し始めた。程なくスピーカーから

「駅前は駐車禁止です、直ちに移動して下さい」と猛々しい声。
 

まさか自分の事とは思わなかった。あの頃はいつもちよっと車を止めて、あのオープンのプジョー205を・・・。

「横浜からね、ここは駐停車禁止ですから。それと携帯もダメですよ、本当はハンズフリーもダメですからね、入ってくるときに話してたでしょう、そちらは注意と言う事で。免許証見せて。いいですね、切りますからね」
 

ナンバーを見ながらの若い警官の高飛車な言葉に直美さんはショックを感じた。

携帯は確かに話してたわ、でも昔から私は他のクルマの邪魔にならないここに、ちょっとだけ止めていたのに。私はここで生まれて育って私の思い出の街なのにと思うと悲しくなっていた。

「駅に友達を迎えに来たので、もう来ますから・・」
「そんな事言ってもダメですよ、止めたんですから」

とっても失礼な言い方に聞こえた。思わず口走っていた。

「いいわよ、好きにしなさい。見てたんでしょ私がロータリーに入って来るのを、だったら私がクルマを止めた時に注意しなさいよ。アナタ名前教えなさい。ああ藤田君ね。私、動かすわ、いいでしょ。そこ避けて危ないわよ」
 

そう言うと直美さんはメタリックレッドのレンジローバー・スポーツに乗り込みしっかりシートベルトをした。あっ気にとられる警察官を尻目にゆっくりとロータリーを回り始めた。

それはまるで初めてクルマを運転する初心者のように。これから懐かしい同窓生とランチ、それも懐かしい駅前のイタリアンレストラン「RI」でだった。早く着いたのから綺麗になった駅前を見たかっただけなのに、と思うと悔しかった。
 

藤田警官は交番に戻ってもうひとりの警官と二人で、ゆっくりとロータリーをぐるぐる回る赤い横浜ナンバーの高級外車のSUV車を見ている。

「みてなさい、私は駐停車してないわよ・・他のクルマも人にも邪魔してないわよ」
 直美さんはあの警官ではなく思い出深いこの街から拒否されたようでこらえる間もなく涙が出てきた。何度も何度もこの街でこのロータリーで車の運転の練習をしたあの頃が蘇っていたのに。あの頃が懐かしかった。
 
 レストランに程近いコインパーキングが空き、直美さんはやっとクルマを駐車した。気持ちは晴れないまま「RI」の石畳の階段を上った。昔と変わらず懐かしい。登り切ると右に折れ、自然に駅舎が見える。

見かけたあの青いクーペがロータリーを抜けてこちらに来るところだった。
「帰ってきたのね、やっぱりプジョーだわ、綺麗なクーペ・・」
 

中年の男性が運転するプジョー・クーペ407は直美さんの真下を通り抜けた。助手席には若い女性がいた。
 

「一彦・・」直美さんの女子学生時代の彼が一瞬蘇ってきた。

「彼のプジョーで運転を習い、彼から私は巣立って行った。いつも幌を開けてまるでいつでもどこへでも自由にと行っていた一彦、彼はまだこの街にいるに違いない」そんな想いに囚われていた。

女子高時代の仲間たちが集まって楽しいランチになった。皆この界隈に住んでいた、直美さんは横浜の大学に、そして結婚をした。もうこの同窓生のほとんどがこの街にはいない。時が移ろってそれぞれがそれぞれの道を選んで歩いている事が今こうして見えていた。
 

銀杏並木が後ろにゆっくり流れていく。レンジローバー・スポーツは390馬力のほんの一部を使って直美さんを横浜に向けて走り始めた。 
 

「人生にもしあの時なんて無いわ、でももし彼と別れなければ、きっと今ごろあの青いクーペで走っているわ・・屋根がある二人のクーペ」
 

第三京浜に入ると直美さんは一気に右足に力を込めて加速した。スーパーチャージャーのジェットのような過給音とシートに張り付くような加速でさっきまで戻っていたあの頃を忘れようとしていた。

ハーマンカードン社のオーディオシステムからはサザンオールスタ-ズの『ミス・ブランニュー・ディ」が勢い良く流れて、まるでメタリックレッドのレンジローバー・スポーツは直美さんのボディガードのようだった。


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